藤井ひろき議員の個人質問 ①戦争遺跡保全を(2017年9月14日)
戦争遺跡を保存・活用し、次世代に「悲惨さ」継承を
藤井ひろき 議員
身近にある戦争遺跡
【藤井議員】戦争遺跡とは、戦争の痕跡、戦争のために造られた施設や戦争で被害を受けた建物などのことで、現在もそのまま、あるいは遺構として残っているものを含むとされ、また定義を広くとれば、戦時中の様子を当時のまま今に伝える建築物なども含まれます。かつての戦争の時代を物語る遺跡として、後世に伝え、歴史の生きた教材になることが期待されます。
まずは、このパネル(下)をご覧ください。この場所はどこでしょうか。これは本庁舎時計塔裏側の外壁です。この黒ずんでいる部分は、汚れや経年変化によるものではありません。
(市役所本庁舎 時計塔) (時計塔を拡大)
1933年9月に竣工された名古屋市庁舎は、太平洋戦争中、空襲から逃れるため、コールタールで一部が黒く塗られました。こちらの写真(右下)が戦後まもない1949年、まだカムフラージュのための迷彩が施されたままの市庁舎です。
迷彩が施された市庁舎の外壁は1952年、洗い落とされましたが、戦後72年たった今なお、その迷彩色の一部がこのように残っています。私たちが今いる、この建物も戦争遺跡の一つです。
本市においても戦争遺跡は多くあります。
たとえば南区の笠寺公園。ここには太平洋戦争中に高射砲陣地がありました。現在、公園内には高射砲を据えていた砲台跡が、当時6基あったうちの2基が残っています。
また熱田区には、1945年6月9日の空襲で被災した堀川堤防の一部が保存されています。当時、愛知時計電機などには、従業員や動員学徒ら合わせて約2万2000人が働いていましたが、この熱田空襲により2000名を超す方々の命が奪われました。
この被弾した堤防は、堤防改修の際、その一部が熱田区の千年プロムナード内に移設され、現在に至りますが、掌(てのひら)より大きい被弾の痕跡に、当時を想像すると戦争の恐ろしさと同時に悲しさ、むなしさで胸がいっぱいになります。いずれも名古屋市による、案内板や碑が設けられています。
市内を歩けば、街中にひっそりと戦争の傷跡である、戦争遺跡が残っており、訪れるたびに改めて平和の尊さを実感します。
先月15日の終戦の日。市民グループが1990年から毎年、8月15日に行っている市内の戦跡巡りに参加しました。
このパネルをご覧ください。こちらは東区の円明寺です。このお寺の鐘楼には「石の鐘」が釣り下がっています。なぜでしょうか。
これは太平洋戦争中、金属類回収令の実施によるものです。この回収令では、官民所有の金属が回収されましたが、全国各地の寺院や教会の鐘も例外ではありませんでした。円明寺の鐘は1942年に供出され、その際、代わりに石の鐘をつくり、吊り下げました。
戦後、石の鐘を降ろし、銅の鐘を吊るす計画が起こりましたが、時の御住職さまが平和のありがたさを忘れぬために石の鐘を吊るすことにされ、現在に至っています。先日、ご住職さまにお話を伺ったが、全国的にも今なお、吊り下げられた状態の鐘は、おそらく円明寺ぐらいではないか」というお話でした。
円明寺では一昨年、戦後70年の夏を迎えるにあたって檀家さんと相談し、お寺の皆さんで案内板を設置されました。市民の皆さんが自ら案内板を設置された数少ない例かと思います。
戦争遺跡は歴史の生き証人でもありますが、その多くが周知されることなく、街中にひっそりとたたずんでいます。
たとえば、すぐ近くにある市庁舎北側の街路樹(右)。この松の木には、このようにV字型の傷跡が今でも残っています。これは太平洋戦争中、生活物資のマッチ不足をカバーするため、松の幹を削って松脂を採取した跡です。戦時中はそこまでしていたのかと、胸が痛みますが、このように戦争遺跡は本当にすぐ身近にあります。
市の把握状況は
【藤井議員】市内各地の戦争遺跡を訪れている最中に、1冊の興味深い本に出合いました。こちらの「学芸員と歩く 愛知・名古屋の戦争遺跡」。昨年3月に出版された、この本の第1章が名古屋の戦争遺跡について書かれています。実はこの本の著者が、本市の学芸員であり、発行が名古屋市教育委員会文化財保護室と東京の六一書房です。文化財保護室に聞くと、学芸員として本市の歴史を調査研究していくなかで、まとめたものを出版されたとのことでした。
本市の学芸員さんが調査研究し、教育員会が出版。戦争遺跡に関して教育委員会も取り組んでいると思います。
そこで教育長に1点お聞きします。市内に存在する戦争遺跡について、どのように市は把握されているのでしょうか。
市教委ガイドブックに名古屋市内の戦争遺跡103件を掲載(教育長)
【教育長】戦争の悲惨さや平和の大切さについて考え、平和を希求する市民意識を醸成することは意義深いものと考えています。
本市では、愛知県内の各地に残る戦争遺跡を訪ねていただくためのガイドブック「学芸員と歩く 愛知・名古屋の戦争遺跡」を2015年度末に発行しました。このガイドブックでは比較的容易に見学できる名古屋市内の戦争遺跡として、高射砲陣地跡や空襲被災地など103件を掲載しています。ガイドブックを作成するにあたっては、愛知県史や郷土史などの文献を調査するとともに実際に現地におもむき、各地に残る戦争遺跡を把握したところです。
戦争遺跡を実際に訪れ、見たり触れたりすることで戦争の悲惨さや平和について考えるきっかけになるのではないかと考えます。
調査研究の継続を(意見)
【藤井議員】文献調査、現地調査によって市内の戦争遺跡103件を把握しているとのことでした。
日頃、市長が「世界のAIOIYAMA」と言っている相生山緑地。ご存じかどうか、市長には今回お尋ねしませんが、実は相生山緑地にも戦争遺跡があります。相生山緑地にはB29が爆弾を投下した跡が今でも9つ残っており、これは教育委員会が把握している103件の1つであります。
市内各地に数多くの戦争遺跡があります。ぜひ市内の戦争遺跡の把握に努め、調査研究を続けていただいたいと強く要望します。
戦争の悲惨さ継承を積極的に取り組むべき
【藤井議員】総務局長にお聞きします。戦争遺跡の多くが、身近な街中に存在しますが、時が経てば忘れ去られ、あるいは開発等で人知れず、失われてしまうこともあるでしょう。戦後72年、戦争体験者の高齢化が進む中、次の世代へ戦争遺跡を継承していくことが重要です。
戦争遺跡なども含めて、戦争の悲惨さを継承していくことについて、どのように考えているのか。たとえば「愛知・名古屋 戦争に関する資料館」を来館された方に戦争遺跡に興味を持ってもらう工夫をしたり、ウェブサイトで紹介案内するなど、より周知を行うなど、次の世代への継承のために積極的に取り組んでいくべきだと考えますが、いかがでしょうか。
教育委員会と共同で戦争継承をすすめる(総務局長)
【総務局長】愛知県と共同で2015年7月より、「愛知・名古屋 戦争に関する資料館」を開設し、県民からの寄贈品を中心とした戦争資料の展示を行い、平和について考える機会を提供しています。
資料館では年3回の企画展を行うなど工夫を凝らしながら運営しているほか、戦争遺跡も、教育委員会の学芸員をアドバイザーとして委嘱し、パネル展示、夏休みの特別企画として講座を行うなどの紹介している。
今後も機会をとらえて、教育委員会と連携しながら、戦争体験の継承に努めたい。
マップづくりや学芸員の増員を(意見)
【藤井議員】愛知・名古屋 戦争に関する資料館における、戦争遺跡の取り組みについて、お答えがありました。同資料館は常設展示では戦争遺跡がパネル展示で9枚、うち4枚が名古屋市内のものが紹介されているだけであり、戦争遺跡の継承のため、もっと活用、工夫があるのではと考えます。
たとえば同資料館に市内の戦争遺跡がわかる、サイズがA3とかB4のチラシマップが1枚、無料配布されていたら、「一度、現地を見てみよう」「今度、親に連れて行ってもらおう」とマップを手に戦争遺跡を訪れる来館者の方や、お子さんたちも増え、戦争遺跡の継承につながるのでないでしょうか。
この資料館は約11000点の収集品に対し、学芸員1名、事務職1名です。収集品の保存、研究、展示に加え、戦争遺跡を周知、活用した展示となると、学芸員の増加は必要不可欠です。学芸員を増員し、戦争遺跡の継承にこれまで以上に取組んでいただきたいと強く要望を申し上げます。
キーワード:平和と人権、市民生活、藤井ひろき